

辞書で探しても本染めという言葉は見当たりません。
染めるという言葉はあります。
専門用語が入りますが、「水を媒体にして染料を、生地に化学的に固着・結合させること」これが、染めるということです。つまり水を使って染料を溶き、生地に浸透させ、蒸し・水洗作業をして生地の元となっている繊維の奥までしっかりと染着させることです。
ではなぜ我が社や一部この業界では染めるというだけではなく、本染めという言葉を使うのか?現代において、染の定義から離れるものも、紛らわしく同じように扱われる便利な時代なので、あえて伝統の染を「本物」の染として呼び習わし、区別しているのです。
もっとも特徴的な違いは水を使って染物をしているか、そうではないかというところにあります。巷でよく見かける殆どの幟(のぼり)は顔料捺染という手法で染められています。
顔料とは染料を水ではなく、ボンドのようなもので溶いている染料のことをさします。
ボンドのようなもので生地に色の粒がくっついているというとイメージしやすいでしょうか。あたかも染まっているかのごとくに見えます。また摩擦に弱い面はありますが、なかなか色が落ちることもなく、紫外線で色が変色したりということも少ないのです。
用途によってはとてもいいものですが、本染めの色の深さ、風合いというものは損なわれています。現代において、地球環境に対して、本当に水を使った染物が果たしていいのかどうかは疑問の残る部分もありますが、本染めならではのこっくりとした色合い、生地のやわらかさは他に類を見ない美しさがあります。是非その違いを知っていただきたい。
私たちが品質にこだわる だから故にある・・・・それが、私たちの本染めなのです。


のれん【暖簾】:古代日本の家屋には壁が少なく、暖をとるのに最低限の間仕切りとして簾をかけていました。それがのれん。読んで字の如くです。そしてその暖簾は日除けや風よけ、目隠しやちりよけとして玄関先にも掛けられるようになりました。それが目印としての文様が入るようになって今の看板としての機能をもったのは鎌倉時代から江戸時代にかけてのことといわれています。おもしろいのはのれんの色をみるとそこの商いの業種もわかるようになっていたようです。

「洛中洛外図屏風」左隻第4扇中下
室町〜江戸時代の京都市内小川通周辺
買い物する町の人・・商店には当時の暖簾
白地・・・お菓子屋
紺地・・・呉服屋・酒屋
柿色・・・水商売
茶色・・・薬屋・たばこ屋
紫だったそうです
旗の語源:英語では、擬声語のflap(はためく音)からflag(英語)になり、日本語では梵語のpataka(パタカ・波多)から中国語「翻」→「幡」→「旗」となった模様。いずれも布がはためく音を模して出来た言葉のようです。また、旗(のぼり【幟】)の日本でも、海外の起源は戦場で敵と見方を区別するためのもの、兵士の意思を鼓舞するためのものとしてはじまっています。辞典によると旗の同意文字は35種類もあるそうで、その漢字も旗の形状や使われ方、色や模様によって使い分けられていたそうです。

古来より軍扇等によく描かれていた日の丸、旗(幟)として用いられたのは1630年、幕府の巨大船「安宅丸(あたけまる)」に徳川家の葵紋とともに多数たてられたもので主に当時年貢米を運ばせる船の船印として定められたのがのちに外国船の来航が頻繁になり外国船と区別をするためにも国旗が必要となり1854年に「日本総船印は白地日の丸幟」と定められたのが一般的に日の丸を国旗と定めた始まりといわれています。正式には1870年太政官府告57号で商船規則を制定し「御国旗」のデザインや規格を定められたのですが、もともと船用だったのです。

もともと草木染めの浸し染めから始まった日本のそめもの:中国の史書「魏志倭人伝」に赤や紺に染められた藍染めの献上が魏王にされたとあるほど、日本の中で特に藍染めは歴史の古いものです。染物屋は「紺屋」と称されるほど日本の染物は藍染め主体でしたから昔から日本には紺や青に染まった着物から布団、のれんなどがいっぱい。ジャパンブルーは日本の生活の基本色だったようです。事実、江戸時代に来日したラフカディオ・ハーンの「極東の第一日」には「日本の人がきていた着物は紺色が大部分を占めている。またその紺色が店屋の色をも支配している」とあります。紺屋・染物屋は型を作る職人、糊を作る職人、染め職人と分業していたようですが、日本には各地にこの紺屋の職人の集まった町がその名をのこしています。
このように日本各地の(主に水辺)に「紺屋」などの染物屋がありました。京都の友禅流しは有名ですが、やはり川の水を利用して染物の水洗をしていた名残なのです。戦後急速に機械化が進み、染料も化学薬品が多く含まれるようになり、昔のように流暢に川流しで水洗なぞ出来ない時代になってきました。地球温暖化防止が叫ばれる中、わが染色業界はなかなか難しい時代になってきました。現代の「紺屋」も多くの課題を抱えつつ時代にあったそめもの作りをしています。


大昔のエジプトでは、ミイラに巻く麻布を、藍などの植物で、中東はウコンやサフランで布を黄色に染めていました。クレオパトラは貝の分泌腺から得た貴重な色素で染めた紫の衣服を権力の象徴としていたそうです。アメリカ大陸では、コチニールという虫から作られた、鮮やかな赤色の染料を生み出し世界中に輸出していました。コチニール虫からとれる色素は安全で食べ物の色付けにも使われています。

古代は麻糸の織物が主体で、染色については草木の汁液や花などで摺染(スリ染め)していました。しかし、応神・仁徳帝の時代に秦氏が帰化することにより、織の技術とともに染の技術が伝来、進歩し、飛鳥・天平時代に入って草木染の染色技術は益々発達しました。そしてこの時代では、草木の色素を摺染するだけでなく、中国・朝鮮からミョウバンや硫酸鉄などを使用する、いわゆる媒染の技術が伝来し、衣服はよりカラフルになったとされています。美しく染め上げられた衣服をまとうのは、つねに高貴の象徴でした。当然、帝に仕える人々に織師、染師が生まれました。桓武天皇の遷都と共に織部司が奈良の都から平安京に移され、そうした織師、染師らも京都に移住してきました。紅には紅師あり、紫には紫師あり、紺、黒染師が生まれ、何れも禁裡の御用が専門で染師の邸宅は烏丸一条辺を中心とした御所の近くにあったそうで、その時代の染師は苗字帯刀を許され、相当格式があったと伝えられています。この時代に日本、京都の染業のルーツを探ることができます。
徳川時代には、植物染料を主体とする染色法はほぼ確立し、一般大衆の需要に応じる染屋としての独立した染業が生まれました。文化10年の佐藤信淵の『経済要録』には藍葉、紅葉、紫根、茜草、ウコン…など植物染料が商取引として挙げられています。八代将軍吉宗は吹上御苑に染殿を設け、大いに染色の研究をせしめ、染業の発展に貢献したとの記録もあり、京都の染業は産業として、この時代に大きく発展したようです。
明治初年頃より、ヨーロッパから日本各地に人工染料が少しずつ輸入されはじめました。当時の繊維は古代からの麻、絹、それに徳川時代から使用がはじまった綿であり、染色はすべて天然染料でした。しかし、1865年にイギリスのパーキンが合成染料を製造、当時の有機化学の発展とあいまって、次々に多くの染料が人工的に造られるようになったのです。織機も明治初年頃ヨーロッパから輸入され、繊維産業は近代産業として変貌しはじめました。日本の誇るトヨタ自動車ももともと繊維産業だったのです。日本は世界の大きな産業革命の波をかぶって大きく変革していく時代でした。
大正時代から戦前の間には、原材料としての染料の開発が盛んな時代、明治時代から既に直接、酸性染料などが開発、使用されていましたが、大正時代に入ってから、ナフトール染料などが相次いで開発され、大正末期にはドイツの染料が各種大量輸入され、新しい化学繊維であるレーヨンの出現とともに、業界の染色技術が急速に向上したときでした。戦後はこれに一層の拍車がかかることとなります。そしてナイロン、ポリエステル、アクリルなどの三大合成繊維の登場です。これらの合成繊維と共に分散性染料やカチロン染料、さらに反応性染料という綿用の高機能染料が開発され、染色はその時代の先端化学技術となりました。従来はすべて手作業でなされていた染色でしたが、高度成長の波に乗って大量染色がはじまりました。機械や電気技術の応用により、機械化されだしました。
近年はコンピューター技術やナノテクノロジーの発達とともに染色も織物もより高度な機械化・オートメーション化が進み、より複雑で高度な染色や織物が可能な時代になってきました。現在も、これからもまだまだ進歩しつづけていくことでしょう。
